ここはメキシコのベラクルス、片田舎の競馬場。7歳の少年が、ゲートの横に立っていた。
レースはマッチレース、2頭の馬しかいない。もう片方の騎手は少年の父親だ。家族の生活費を稼ぐため、クォーターホースの競馬に乗って猛スピードで駆け回っている。
目が覚めるようなゲートが開く音、騎手の雄叫び、馬が駆ける音、鮮烈な光景、そして馬の迫力。それが少年の心に火をつけた。お祭りの花火のように少年の心は燃え上がったのだ。
「ゲートのすぐそばに立っていたんですが、飛び出すスピードは凄まじかったです」
フアン・ヘルナンデス騎手は少年時代の思い出を回想する。
「父がレースに連れて行ってくれたのは、あの時が初めてでした。あんな速さでゲートを出る光景を目の当たりにしたとき、『騎手になりたい!父のようになりたい!あんな風に走らせてみたい!』と思ったんです」
ヘルナンデスは現在32歳、南カリフォルニアのトップジョッキーだ。ここ数年はデルマーやサンタアニタのリーディングで首位に輝いており、以前は北カリフォルニアでも活躍していた。
アメリカでは12200回以上のレースに騎乗し、勝利数は2650勝以上。獲得賞金は8580万ドルを超えている。2023年には、勝利数と獲得賞金の両方で全米騎手リーディング11位にランクインした。
彼の実績は日々積み上がっている。今年は殿堂入り調教師のボブ・バファートの管理馬で、遠く離れた東海岸のG1を勝った。また、極東の日本からもオファーが届いている。JRAは昨年と今年、彼にワールドオールスタージョッキーズ(WASJ)の出場依頼を打診した。もっとも、まだ正式発表はされていないが。

もし、運命の導きとか、セレンディピティとか、神の摂理とか、強運とか、そんな類いのものがなければ、彼の騎手キャリアは大分異なっていたかもしれない。メキシコシティの平凡な見習い騎手が、アメリカのG1を勝つまでに上り詰めた。
地元メキシコでの台頭、アメリカンドリームへの『裏口ルート』、そして北カリフォルニアを離れる決断が、今の彼を創り上げたのだ。
ことの始まり
ヘルナンデスの人生を振り返ると、馬との関係は切っても切り離せない。
彼の父親、ホセ・トリニダード・ヘルナンデスはクォーターホースの競馬に専念するため、ベラクルスの田舎からメキシコシティに移り住んだ。その地でオリビア・サンタナと出会い結婚したが、夫妻は故郷のベラクルスに戻った。フアンが生まれたのは、ベラクルスに戻ってからだ。
5歳か6歳の頃、彼は父親と一緒に厩舎に通い始めた。そして、父のレースを初めて見たあの日が訪れる。
「父の馬を応援していましたが、見事に勝ちました。馬主の方とも記念写真を撮りました。その時から、もう学校には行きたくなくなりました。父と一緒に馬の仕事で働きたくなったんです」
母親の影響で学校に通う日々は続いたが、週末は父親や叔父たちと過ごし、馬の世話を手伝った。そして、10歳を迎えた頃、家族は再びメキシコシティに引っ越した。父が競馬場で働き始めたのだ。
「父はそこで調教を手伝っていました。そこで初めてラスアメリカス競馬場を見たのですが、あの大きな競馬場とたくさんの馬を見たとき、『ここが俺の居場所なんだ!』って思いました。騎手になる夢が、より一層強くなりました。一目惚れみたいな感じですね」
14歳で高校を卒業すると、夢への第一歩を踏み出した。『イポドロモ(スペイン語で競馬場)』が新しい仕事場となったのだ。
もっとも、立場は一番下からのスタート。競馬学校もなかったので、見て、聞いて、そしてやってみて競馬のイロハを学ぶ日々が始まった。
訪れたチャンス
16歳のとき、騎手デビューの話が舞い込んできた。後にスティーヴ・アスムッセン厩舎でアシスタントトレーナーとして働くことになる、マリオ・ディアス調教師が彼の腕を見込んで話を持ち込んだ。
しかし、彼本人も自信はなかった。父親も確信は持てなかった。それでも挑戦してみることになり、一人の若者が新人騎手の仲間入りを果たした。
「準備不足なのは確かでした。そのレースは逃げることができましたが、勝負所で外に膨らんでしまい、内側から差されてしまいました。調教師は怒り心頭でしたし、オーナーもお怒りでした。その日は怒られましたね」
「勝ちたかったレースですが、競馬のコツが分かっていませんでした。負けは辛いですが、それでも得たものはありました。悔しさと同じくらい、ワクワクしました。厳しく叱られましたが、仕方ないです。騎手である以上、努力して、強くある必要があります」
ディアスは新人のヘルナンデスに経験を積ませるため、シーズン終盤の数ヶ月は集中的に乗せてくれた。しかし、冬のオフ期間が明けると状況は変わっており、ミゲル・シルヴァという新しい調教師がやってきた。
引き継いだのは競馬場最大の厩舎で、シルヴィオ・アマドール・ルイス騎手が主戦として起用されていた。一方、ヘルナンデスは経験の浅い新人騎手。厳しい立場なのは覚悟していた。
「ある朝、調教で乗っていると、新しくやってきたシルヴァ調教師が声をかけてくれました。『君は騎手なのか?』と尋ねてきて、はいと答えました。その時は『頑張れよ』と言ってくれましたね」
「そのシーズン、私は他の厩舎の馬に乗って好成績を残していたのですが、主戦のアマドール騎手が落馬事故で怪我をしてしまいました」
「当時の好成績もあってか、私のエージェントに連絡を入れてくれて、以後はシルヴァ厩舎の主戦騎手として起用されるようになりました。そこからは驚異的な勢いで勝ち星が増えましたね!」
その年は192勝を挙げて、競馬場のリーディング騎手に輝いた。
プエルトリコ経由、サンフランシスコ行き
中南米競馬の最高峰として、クラシコ・デル・カリブというレースが存在する。このレースは持ち回りで開催され、2009年はプエルトリコで開催された。
アマドールの落馬事故以降、若手騎手として台頭し始めたヘルナンデスは、このレースで一頭の馬を任された。メキシコの有力牝馬、ヴィヴィアンレコード(Vivian Record)だ。
ヴィヴィアンレコードはこれまでにルビ賞、エスメラルダ賞、ディアマンテ賞、クリアドレス・メキシカーノ賞、エストレージャスハンデ、そしていくつかのアローワンス競走を勝ち、12月の大一番に駒を進めることになった。
「そこに行くにはビザが必要だったので、その点では幸運でした」
ヘルナンデスがそう語るのは、アメリカのビザのことだ。プエルトリコはアメリカの自治地域のため、入国にはビザを取得する必要がある。
ヘルナンデスが乗ったビビアンレコードは2着、勝ち馬はベネズエラから遠征してきたバンベロ(Bambero)という牝馬だった。
しかし、このプエルトリコ遠征とアメリカのビザが彼の人生を変えることになる。
プエルトリコの地で、今後はどうすべきかを考えた。師匠のシルヴァ調教師に相談すると、率直なアドバイスが返ってきた。
「彼は『おい、お前はアメリカで乗るべきだ。メキシコからアメリカ行きは入国が難しいから、お前にとってはチャンスだぞ』と言いました。その時は分かったと答えたのですが、当時は17歳でアメリカには知り合いは誰一人としていません。メキシコに戻るつもりでした」
「ただ、プエルトリコにはもう1週間だけ滞在しました。もう一度尋ねると、『ビザが切れる前にアメリカで乗ってみたらどうだ』とやはり言われました」
クリスマスイブの日、ヘルナンデスはサンフランシスコに降り立った。入国審査カウンターに行き、保証もなく不安が募る中でただ自分の番を待ち続けた。
「通過できるかは半々だったので、失うものは何もない覚悟でした。しかし、その場で『これはプエルトリコ専用のビザなので、アメリカ本土には入国できません』と言われてしまいました」
そのまま別室に連れて行かれ、入国審査官の尋問が始まった。
「3人か4人くらいの人に尋問されました。その後入ってきたもう一人に、こう言われました。『お前、本当に働きに来たのか?本当のことを言え。君を通す権限を持っているのは俺だけだぞ。明日、朝一番の飛行機でメキシコに送り返すことだってできるんだぞ』って」
「ここに来た理由を彼に伝えました。まだ仕事は無いが見つけるつもりということ、それが駄目ならメキシコに戻ると」
「すると、入国は認めると言ってくれました。しかし、調教師と連絡を取り、そこで仕事をして、書類の申請を出して、正しい手段で手続きを行う必要があるとも言われました」
「これで、晴れてアメリカに入国できました」
南へ、そして上昇へ
サンフランシスコで待っていたのは、ラモン・シルヴァという人物だった。彼がアメリカでのエージェントとして、騎手の仕事を手伝ってくれることになった。
カリフォルニアでの初勝利は2010年1月10日、ゴールデンゲートフィールズ競馬場のクレーミング競走だった。ヘナロ・ヴァレホ厩舎のオーギュメント(Augment)という馬で初勝利を挙げた。
アメリカでの初年度は137勝、勝率17%で終え、2年間の労働ビザも取得できた。
2020年初め、コロナ禍の時代になると、彼は既にカリフォルニア州北部を代表する騎手に育っていた。ゴールデンゲート、サンタローザ、サクラメント、プレザントン、そしてフレズノなど、各地で騎乗していた。
ピーク時の勝利数は229勝(2016年)、賞金は460万ドル(2019年)稼いだ年もあった。
しかし、カリフォルニア州を代表するレースが行われるのは南部のサンタアニタやデルマーだ。彼は2012年に進出を試みて拠点を移そうとしたが、失敗していた。
運命の分かれ道は『コロナ禍』だった。ゴールデンゲートが一時閉鎖されると、意を決して南カリフォルニアへの進出を決めた。6月下旬にロスアラミトス競馬場に出向き、3日間の開催で4勝を挙げると、それ以降はかつての拠点に戻ることはなかった。
南カリフォルニア進出後は、エージェントをベテランのクレイグ・オブライアン氏に切り替えた。2020年の獲得賞金は630万ドルに増加し、2022年と2023年は1500万ドルを超えている。
ジョン・ヴェラスケス騎手、フランキー・デットーリ騎手、フラヴィアン・プラ騎手、マイク・スミス騎手などの名だたる騎手と火花を散らし、ジョン・サドラー調教師、フィリップ・ダマト調教師、そして恩師のボブ・バファート調教師らと組んでビッグレースを制してきた。

「デルマーで乗ったとき、ボブ(・バファート調教師)の有力馬を3, 4回くらい負かした記憶があります。その頃、私はほぼ毎日レースで勝ち星を挙げていました。色々と目を付けてくれていたんじゃないかと思います」
「彼はいつも馬を準備万端に仕上げてくれて、騎手に自信を与えてくれます。あまり多くを語らず、任せてくれるのです。自分はそのスタイルが好きです」
「いつも『仕上げはバッチリだ。やるべきことをしっかりやって、堂々と走ってこい』と声をかけてくれたり、『ゲート裏で馬の状態を確認しろ』とシンプルなアドバイスをくれます」
2020年9月、デルマー競馬場のロデオドライブSをムーチョアンユージュアルで逃げ切り、ヘルナンデスはG1初制覇を手にした。それ以来、積み重ねたG1勝利数は16勝、彼の向上心はとどまるところを知らない。
「私の夢の一つはケンタッキーダービーに乗ることです。ただ乗るだけでなく、ダービーを勝ちたいです。ブリーダーズカップも勝ちたいですね」
成功への情熱
ヘルナンデスはプロ意識の高さ、勤勉さ、信頼の高さ、そして冷静さで知られている。一流のペース判断力、力強さを持っている。ゲートの上手さは、ベラクルスのマッチレースで名を馳せた父譲りだ。
彼は競馬場やジョッキールームでは皆と親しいと言うが、こう付け加える。
「パドックで馬に乗った瞬間、友達はいなくなります。全てが仕事、ただ勝負に勝ちたいという気持ちだけが残ります。レースに勝ったとき、ビッグレースに勝ったとき、その日の夜は良い気分でしょうけど、翌日には『次はどうするべきだ?』と気持ちを切り替えます」
では、フアン・ヘルナンデスの次の目標は何なのか?
妻のメリッサや2人の息子と共に暮らす南カリフォルニアでの生活には満足しており、当面はここを離れるつもりはないと言う。しかし、より賞金が高いビッグレースが行われる、アメリカ東部にも関心は向けられている。
「騎手の仕事が大好きなので、もっと多くの馬に乗ってさらに多くのレースに勝ちたいです。いつか世界を旅できたら良いなと思うので、ヨーロッパやドバイ、日本でも騎乗してみたいですね」
「昨年、札幌のワールドオールスタージョッキーズ(WASJ)に招待されましたが、日程の都合で忙しくて辞退しました。この時期のデルマーは毎週良いレースがあるので留守にするのは難しいのですが、いつかは乗ってみたいです」
彼は既に、ベラクルスと故郷の小さな街ペローテから遠く離れた地に辿り着いている。
「昔はよく言っていました。『いつかアメリカで競馬で乗りたい、あの世界に入ってみたい』って」
「でも、実際に足を踏み入れるのは難しいことだと覚悟していましたし、うまく行く保証もありませんでした。ただひたすら、『夢を追いかけよう、アメリカで最高のジョッキーたちと一緒に騎乗できるようベストを尽くそう』と思って、ここまでやってきました」
子供の頃、そしてラスアメリカス競馬場で見習い騎手だった頃の夢が、今ここで現実のものとなっている。彼は今や『あの世界の一員』であり、充実した日々を過ごしていると言う。
「メキシコにいた頃、こんなにうまく行くとは思っていませんでした」